モデる側とモデられる側

コンピュータそのものではなく、コンピュータを用いたシステムでは、その設計段階で、扱う情報、ユーザーの振る舞い、メッセージ、そしてもちろん実現したい機能をモデル化する。設計(デザイン)とはモデル化とその実現方法の検討に他ならない。このデザイン屋をモデる側とし、情報や振る舞いの源泉たる人、をモデられる側とここで称してみる。

さて、システム屋のはしくれたる俺もモデリング手段なり新しいモデルなりへの興味は尽きない訳だけど、この、モデル化そのものに対して嫌悪感を抱き、反発する層ってのが存在する。

この層は「ふふん、オラのクリエイチビティをオメーなんぞのカタにハメられてたまるかコノヤロ」みたいなマインドを持つ層、と言い換えることもできる。新たにモデル化できたもの=スタンダード予備軍という側面もあるため、あらゆる標準化への嫌悪感を抱く連中がいることは、まあ、想像できなくもない。でもユーザーさんですので「少数意見」てな風に無視する訳にもいかん場合がある。

こういった層に出くわす場合、「どこまでモデル化するか」、というモデル化レベルそのものの議論となる。情報や振る舞いを、網羅性の高いガチガチのモデルにしてしまえばしてしまうほど、確かに実装はラクでしょうし、モデる側としては「モデれるものは全部モデりたい!」と思うのも自然ですが、ガチガチにモデル化されたオブジェクトはその発生元であるヒトの創造性を潰してしまうことにもなりかねない。

これが業務システムなら納期だなんだの制約事項のせいで現実解への収束もありえましょうが、コンシューマサービスは難しい。情報の用途をガチガチにしてしまったがために、(実はあった)多様性をomitしてしまう、という事態は避けたい。

オブジェクト指向のおかげで、モデる側は情報、に対するmethodは増やしうることを想定して設計できるようになったが、どうもそれだけでは済まないような気がする。

Web2.0のキーワードに「情報のremix」も掲げられているように、「情報」自体は非常に単純な構造で、そのmethodを足すためのAPIがオープンになっている、というアプローチが、情報の用途の多様性を担保するためのヒントではないだろうか。

なんて思いつつ2005年は暮れていく。
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