コントラスト補完

東京に住んで9年になろうとしています。23区外の平均的な郊外住宅地生活も経験したし、高層ビル街に見下ろされてるような場所での生活も経験した。とにかくショップとネットのおかげで音楽ソフトウェアの調達に関する地方的な障壁はなくなったので、いろんな人の嗜好を純粋に体験してみたくて、いろんな場所でいろんな音楽を聴いた。聴くための手段はCDウォークマンからiPodへと変化したけど、移動中に、移動先で、歩きながら、電車に乗りながら、自転車こぎながら聴くという場面はあまり変わらない。音楽が風景に溶け込んで、情景を豊かにしてくれる組み合わせと、音楽が心象に溶け込んで、感情をコントロールしてしまうような組み合わせを探しているのかもしれない。
数年かけて、整然と並んだビルから生える看板とネオンに商売人の熱意を(関係ねえなあ)などと感じながら、吸い殻とゴミが舞う路上を歩く際には、なにしろ鋭角で殺伐とした音が合うのだ、ということで落ち着いた。恥ずかしながらポストパンクとかニューウェーブとかとの出会いが同時期だったとも言うけど、都市が身近になってこその変化だ。

反対に、それまで集中して聴いてたHIPHOPからはトンと離れてしまった。ぶっとくてゴリッとしたベースラインにギャングスタラップが乗っかるスタイルばかりで食傷気味だからかなーと思ったが、どうも、上記のような路上には HIPHOP が合わない気がしてならなかったのだ。

この冬、帰省した際に、霜の降りた田舎のあぜ道を歩いていて思い出したのは、(この、茶色とグレーと若干のくすんだ緑しかないローコントラストな環境にこそ、HIPHOP がよく合っていた)という高校の頃の感覚だった。密度が濃く緊張感のあるトラックの中で、低音高音のMCが乗っかり、派手なブレイクビーツが展開する、聴覚的なコントラストの強さで、視覚のコントラスト不足を補っていたのだろう。都市には色や輝度の配置による視覚的なコントラストがありすぎる。

聴覚と視覚のコントラストの補完関係は上記でだいたい整理できたんだけど、人格や意味の配置による論理的なコントラストづけについても、同様の傾向が見られてきた。コントラストの強い街には相対的にコントラストの低い、無機質で虚無感のある音楽がよく合うように、コントラストの強い人がコントラストの強い発言をすると過剰だよね、という感覚。

このテーマ、カメラを手に入れてからさらに意識するようになった。耳では忙しい音楽を聴きながらだと、ファインダーではローコントラストな美しさを求め始めるけど、無機質殺伐な音楽を聴きながらだと、視覚のコントラストを求め始める。おもしろい。
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