システム選択の自由


情報システムの開発なぞに関わりがあるせいか、このところ、「それにつけても世の中は多種多様なシステムが動いてるなあ」という感覚があります。もちろん世の中のシステムですんで、アイテーぎじゅつの介在なく動いているシステムも含んで。

広義のシステムとは、自然科学とは直接関係しない、ヒトもしくは人間社会の都合のために、ヒトによってか、自然発生か、または神が用意したか、いずれにせよ「ヒトの都合に作用する、ヒトによってもたらさせる仕組み」と言えるだろうか。だからコンピュータシステムもその一部。ここで、システムの本質は「都合がよい」という一般的な価値が共通認識になっていることが前提になってます。

それは今より幸せになるためのシステムかもしれないし、予想される不安を軽減するためのシステムかもしれない。そういう意味で、誰しも最低限、社会生活や経済活動を根底から支えているシステムには関与して生活してると思うんだよね。

んで、ふと「ハ!」と、仕組み=システムって表現できる以上、自分には「システムを選択する自由がある」と気づきましたんです。少々乱暴だけど。そうか、システムなんだから、「俺には都合が悪い」と思ったら、そのシステムに関わらなければいいだけなんだ。

例えば、Windowsで、スタートメニューにあるから推奨なのだと思ってるのか、リソースメータ(タスクマネージャでもいいや)を常駐させてる人がいる。あれでわかる情報はそりゃ有用なこともあるだろうけど、そのメータ自体がリソース喰って、マシンのパフォーマンスを落とすことには気づいてなさそうだ。で、これは不必要なシステムを選択をしているのだと思うのよ。もっと言えば、生保でも災害保険でも、気づいたらいっぱい入っててなんだか給料の天引きが多いな…って状態も、システム選択に失敗していると思う。

選択の自由がある、つっても、法律を無視しろーとか、義務を不履行しろーって助長する訳じゃなくて、何か自分に不都合を与えている現実があったら、その現実をもたらしているのは何かのシステムなんだと認識するだけで、気が楽になる。そんなシステム、関与しなければいい。

もちろん、現実問題として、関与したくないからって無視できない問題もあると思う。だからこそ、システムへの関与は「覚悟」を伴うべきだ。システムの選択は自由だけど、システムへの関与はもしかしたら予想した都合の良さを与えてくれないかもしれない。それなのに対人的に責任が生じたり、経済的に圧迫が生じるかもしれない。

でも、関与することでどんな罠があるかを知らない間に関与しちゃってる場合があるし、あるシステムにコミットを迫られる前に、十分な吟味なんてしてられない場合が多い。じゃあ、関わっちゃってるなら、そのシステムとはどういうカラクリなのか、どうやったら関わらずに済むのか(どうしたらその呪いから抜け出せるか)を考えていけばいい。「不満があるんですよ、もう、タマランすよ」と個人的な都合を述べたり、途端に逃避したり、システムを仕掛けた側を恨んでいても始まらないし、そうされた側もどうもできない。

なんでこんなふーに思ったか、なんだけど、最近の自分の興味はなんだろな…と考えてたところ、どの人にはどんな都合があって、どんなシステムと関わってるのかを探ったり、その根底にあるかもしれない対立構造を探ったりするのが、俺の好奇心の源泉であり行動原理なんだということに気づいたからなんです。今までは単に本能で「こっちの方が高度」「こっちの方が面白い」って選択をしてきただけなんだけど、ここんとこは確かにそう考えてる。

てことで、今後しばらくは、システムの仕組みを認識することに重みは置かず、システムだったら選んでいいんだと再認識することを試みていくことと思います。

「人間社会はどこをとってもシステムでできてると思いたいの?」
−そう思いたいけど、すべてがシステムであるべきかどうかはわかんないねえ。

「で、行き着くところはどうありたいの?」
−『国破れて山河あり』じゃないけど、余計な仕組みをとっぱらった先には、とてもシンプルな「くらし」があるのだと思う。一切のシステム、たくらみ、企て、仕掛けなんかとはと関わりなく、山があって草木があって川があるという(人によってはそれは海と砂浜かもしれないけど)、目の前に資源があってくらしたい自分がいるというシンプルな状態だけがある。そこで、余計な情報も野心もなく、ただくらしを全うして、身の丈にあっただけの愛を、自然と共に育むのがいいねえ。

つっても、その前に欲もあれば野心もあればで、今からこうしたい訳じゃないけど。


ピカメケもどる| ピカサムシング