City, Girl, Number Girl


都市が俺に与えるダメージがあるとしたら、少女が俺に与える(俺が勝手に被る)ダメージがあるとしたら、それはめまいという症状で与えられます。

それらのめまいは、高揚感と表裏一体であり、高揚感を味わった後にやんわりと生じます。例えばそれは、非都市で生活してきた俺が都市ならではのリソースに触れることで感じる高揚感。メディアを通してから知るしかなかったそれらリソースに触れることに、最初はそれなりの感動と興奮を覚えるのですが、でも、ちょっとするとそれらメディアは全くの表面を伝えることしかできていないということに気付き、(ネイティブで都市生活をする人々は感じないのでありましょうが)それらリソースが、表面的にはただ近所に存在しているだけなのに、その文脈や経緯やバックストーリーのいずれかひとつであっても、自分の持っている処理能力を楽勝で超える情報量であることへの驚きと戸惑いがめまいを生むのです。

これは都市を少女に置換しても同じことなのです。恥ずかしいからこっちのエピソードはあんまり言いたくないですけど。(同じように、たぶん、俺がまだ知らない文学や絵画や写真や映画や…あらゆる表現には俺が目眩を覚える何かは存在すると予想できる訳ですが)

さらに、そんな高揚感から生じためまいと並行して、ほとんど全ての「上京するという行為を一生行うことのない方々」が当たり前のように都市と向かい合っていること、そして多くの男子はそれでも少女をハンドリングできる気になっていること(そして一部の少女はハンドリングさせられてしまうこと)、などのこれら全てが立花兄弟のツインシュートのごとく、「おいちょっと待てよ」とめまいをさらに加速させるのです。

そして Number Girl がなぜ関わるのか…なのですが、少女と都市とにめまいを覚えた(そこそこ内省的な)男子が綴る言葉や出す音があるとしたら、今のところ彼ら(というか向井秀徳)以上に的確な表現者には出会っておらず、俺にとってもっとも切なさを覚える心情は彼によって語られてしまった、とばかり思うのです。

向井秀徳は「透き通って見えるのだ/狂った街角きらきら/気づいたら俺は夏だった風景!/街の中へ消えていく」と、都市に立ち、都市を日常として生きる少女と、たまたま都市に立った自分とのあまりの非関連性、しかし捨てられぬ憧憬、といった感情を、「透明少女」で叫んでいるのですからたいしたもんじゃないですか。

だから、Number Girl のファン! って言ってる少女の皆様、俺が行くチケットが取りにくくなるので、ぜひ譲ってあげてください。俺に。

こんなとき、誰かの著作から引用してオラオラと語れるとカッチョいいのですが、文学的素養はちっともねえしなあ。ふう。


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